福岡北九州小倉の大規模火災では、長年愛されてきた「鳥町商店街」のほとんどの店舗が全焼してしまいました。
この記事では今回被害にあった店舗の過去の姿と現状をお伝えします。
北九州市小倉焼きうどん発祥の店「だるま堂」は全焼か
最も古い店舗だった「だるま堂」は壊滅的と思われます。
「焼きうどん発祥の地」と言われるだるま堂です。鳥町食道街の中でも最も古い店舗の一つで、起源は戦後食糧不足の時代。焼きそばを提供するのに小倉ではそば麺がなかなか手に入らず、うどんで代用したのが始まりです。
焼きそばの代替え品なので麺は蕎麦に限りなく近い細い乾麺を茹でたもので、味付けもウスターソースと魚粉のみ。好みで紅生姜も。まさにB級グルメの王道をいってます。
店内は白いタイル張りで、今は有名人の色紙で埋め尽くされてますが、昔は店主の趣味だったのか、演劇や映画のポスターなんかが貼ってあって、昭和の面影が色濃く残っていました。
提供は「焼きうどん」と人気メニュー「天まど(てんまど)」の2種類のみです。
2代目店主の坂田チヨノさんが82歳まで大きな鉄板の上でカエシをさばき、焼きうどんを作っていくのも見ていて楽しいものでした。
エモいですね!
中華料理店「耕治(こうじ)」歴史的な書物も全焼か
中にはラーメン店と思っている人もあるほど。それもそのはず、初代店主の平野耕治さんは東京浅草の出身で、実家は
日本で最も歴史が長いと言われている蕎麦屋、東京浅草のおく山萬盛庵でした。火災で消失したため、伯父さんを頼って小倉で開業を決意。
昭和30年(1955年)の創業当時の屋号は、「東京風支那そば 耕治」でした。
平野耕治さんは作家の「松本清張」や作詞家の「永六輔」さんとも親交があり、二人とも醤油ラーメンの大ファンでした。松本清張は飲んだ後のシメによくフカヒレラーメンを注文していたそうです。(さすが文豪!)
「耕治」には魯山人の書や、松本清張の寄稿文が多く残っていました。全焼してしまったのなら残念なことです。
現在では井筒屋新館8階にある「耕治」ではランチセットも食べられます。シュウマイ、エビチリ、黒酢酢豚など人気です。
うなぎ川淀(かわよど)
小倉では全国的に有名な「田舎庵」と人気を二分する名店で、1950年創業です。
「川淀」さんは親戚店がデパートなどで店舗を展開してますが、昭和のレトロな雰囲気が味わいたいと根強いファンの多い店です。
もちろん鰻も美味しいのですが、こちらの「ぬか漬け」は絶品です。糠床は100年以上受け継がれていて、とても手入れの行き届いた糠床(ぬかどこ)です。
大きなカメいっぱいのヌカで毎日混ぜて手入れされており、全く臭みがありません。
この糠床が焼失してしまったのなら残念でなりません。三代目に当たる店主の川上さんは高齢のお母さんとお店を切り盛りしていたため、何より命が大事とタレも糠床もそのまま置いて避難したそうです。
「たれより命」近隣に声かけ
鳥町食道街には長く続く有名店が複数あり、1950年創業のうなぎ料理店「鰻(うなぎ) 川淀」には60年近く通う常連もいる。3代目の川上仁志さん(55)は3日の火災で、店の近くで上がっていた黒煙にいち早く気づいて119番し、近所の店に避難を呼びかけて回った。
「川淀」の1階には創業時から使ってきたうなぎ料理のたれと、100年以上使い込んだぬか床があった。逃げる際、母愛子さん(87)が「たれを持ち出そうか」と言ったが、川上さんは「持って出らんでいいよ」と答えた。
引用元:毎日新聞
おでんの店「お多幸」
東京で有名な老舗おでん屋さんの小倉支店
「お多幸」は昭和42年の創業で東京日本橋にあるれんわけした「関東風おでん」のお店です。北九州のお醤油は関西風の色の薄いものが好まれますが、「お多幸」さんのおでんがソウルフードという中高年層の市民は多いです。本当に長い間親しまれてきたお店でした。
?SNSで昨年10月に中村座の公演を見にきた方が「お多幸」についての投稿されていました。
勘九郎さんたち「平成中村座」の方たちもきっとこの近辺で食事を楽しまれたかも知れませんね。
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